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第18回日本精神医学史学会 大会長あいさつ 

第18回日本精神医学史学会

大会テーマ 「精神医学にとって歴史とは何か?」

開催にあたって


第18回の精神医学史学会は、再び京都での開催となります。
すべての都市は歴史の凝塊であり、たとえば京都という町の土壌には、長い歴史が浸み通っています。しかしこの都市で精神医学に携わるとき、いつもその歴史を意識しながらそうしているとは限りません。精神医学の歴史は、特定の都市の歴史ではない、そう割り切っている自分がいるのに気が付きます。

ところがここで、精神医学のほうには歴史があるのかと問いかけてみると、無歴史主義を特徴としている診断基準が現行の精神医学の標準的な診断基準をなしていることからも分かるように、精神医学の固有の歴史というものはいまだに精神医学自身によって正当化されてはいないのです。現在の科学哲学と言われる学問分野の傾向も、精神医学についてその歴史性を裏付ける原理になってくれるようには見えません。

そして気づいてみれば、精神医学の歴史が危ういものであるかもしれない反面、現代において精神疾患と言われるようになったものには、どう見ても歴史があるのです。なぜなら、その呼び名が変わってきたことにも反映されているように、この精神状態が、自分たちの生きる社会とどのような関係があるか、そしてそれをどのようにして社会の中に位置づけるかということに、社会自身が苦悩していなかった時代はないからです。

ある学問に歴史性がなく、その学問の対象となるものには長い歴史があるのでしょうか? その学問に携わる者も、学問の対象となる精神状態を担った者も、この見かけの相反によって悩まされていないはずはありません。操作的に切り離したとしても、歴史は帰ってきます。

ジルボーグは医学的心理学の歴史を書き、フーコーは狂気の歴史を書きました。その後学問が自らの歴史を否定したということがあったとしても、それは事象そのものから問いを投げかけられるでしょう。フーコーはその著書を書くに当たって、パリという都市に蓄積された膨大な記録を渉猟しています。彼がそこから引き出した結論には異論もあるでしょう。しかしどうやら、精神医学の実践の歴史が、都市の歴史と無関係であると割り切っていることはできないのです。

精神医学に固有の歴史があるとしたら、それはこうして、それぞれの都市や地域が、事象そのものに対して問いを投げかけてきたことによって形成されてきた面があるに違いありません。精神医学に歴史があるとしたら、それはどこから来たものなのか、そして精神医学が科学であることによって、その歴史はどのようなものとして紡がれていくことになったのか、なぜ精神科医は精神医学の歴史を学ぶべきなのか、そうした基本的な展望を、この大会を契機に改めて開くことができれば幸いです。

第18回日本精神医学史学会
大会長 新宮一成

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